70年前に実験室で解明された人間の弱点が、AIによって今、あなた個人に向けて最適化されている。
情報を疑うあなたが、一番狙われている
〜CIAが始めたことを、AIが完成させた〜
サイバー空間の脅威は、システムではなく人間の判断力を標的にしている
2026年4月8日
発行元:一般財団法人 日本危機管理研究所
執筆者:舩山 美保
本稿のねらい
本誌はこれまで、国家系ハッカーの技術的手法や重要インフラへの侵害など、サイバー脅威の技術・物理的側面を中心に論じてきた(No.007「ペルシャ湾岸攻撃が示す中国系ハッカーの脅威」参照)。しかし現代のサイバー脅威は、技術的侵害と心理的操作の二層構造で設計されており、前者だけを見ていては脅威の半分しか見えない。本稿はその後者——インターネットやSNSを通じて「人の判断力を操る戦争」——を、歴史的な証拠と政府の公式文書をもとに解説するものである。
「情報を正しく判断しようとする人」こそが、最も精密に狙われているという逆説を明らかにし、政治家・ジャーナリスト・メディア関係者が自分の情報環境を見直すきっかけを提供することを目的とする。特に以下の3点を論じる。
- 冷戦時代に米国CIAが開発した「人の心を操る技術」が、SNSとAIの時代に社会全体に広まった70年の歴史を、公式文書で証明する
- ジャーナリストや政治家が、なぜ情報戦の最優先ターゲットになるのかを解説する
- 2026年4月のイランのハッカー集団によるイスラエル軍将校の個人情報暴露事件と、JAXA(宇宙航空研究開発機構)へのサイバー攻撃疑惑を、その背景とともに読み解く
この論文を読む前に知っておくと便利な用語
以下の用語は本稿全体を通じて使用する重要概念である。読み飛ばしても構わないが、迷ったときはこのページに戻ることを勧める。
| 用語・英語表記 | わかりやすい説明 |
| 情報戦・認知戦 /Information Warfare / Cognitive Warfare | 銃や爆弾を使わない「頭の中への攻撃」である。何を信じるか、どう判断するかを操ることで、相手の行動を変えようとする。スマホやSNSがある現代、誰もがこの戦場に立たされている。 |
| 心理作戦(PSYOP)/ Psychological Operations | 不安や恐怖、不信感を意図的に植え付ける情報・宣伝活動である。米軍では正式な軍事戦略として位置づけられており、2025年末に米国防長官が正式名称を「心理作戦」に戻すよう命令した。 |
| MKUltra(エムケーウルトラ) /Project MKUltra | 1953〜1973年に米国CIAが極秘で実施した心理・行動制御の研究プログラムである。「人間の心をどのように操れるか」を体系的に解明することを目的とし、被験者不同意のもと、あらゆる年齢、性別、職業を対象に薬物投与・催眠・感覚遮断・電気ショックなどの実験が行われた。1977年に機密が部分解除され、上院公聴会で全貌の一部が明らかになった。本稿では、このプログラムが発見した「人間の心の弱点」が現代の情報戦の設計原理としていかに継承されているかを論じる。 |
| 思考の枠組み Framing / Mental Model | 人が物事を見るときの「メガネ」のようなものである。同じ出来事でも、どんなメガネをかけているかで全く違う意味に見える。情報戦はこのメガネ自体を、気づかれないうちに交換しようとする。 |
| 安心感を壊す/ Shattered Assumptions | 「世界は大丈夫だ」「自分はある程度コントロールできる」という無意識の安心感を崩すことである。一度壊されると、その後の全ての情報の見え方が変わってしまう。 |
| 判断力の消耗 /Decision Fatigue | 人間の判断力には限りがある。大量の矛盾した情報を浴び続けると判断力を使い果たし、まともに考えられなくなる。これ自体が攻撃手法として使われている。 |
| 情報の門番 /Gatekeeping | ジャーナリストが事実を確認して誤情報を防ぐ、伝統的な役割のことである。現代の情報戦はこの役割を逆手にとり、ジャーナリストを誤情報の拡声器に変えようとする。 |
| 信頼の神話を壊す/ Erosion of Institutional Trust | 「この組織は安全だ」「この国は守られている」という社会的な信頼を、意図的に壊すことである。実際の被害より、信頼を壊すことの方が主な目的であることが多い。 |
目次
・本稿のねらい
・この論文を読む前に知っておきたい言葉
・エグゼクティブサマリー
第1章 今、あなたの判断力は攻撃されている(2026年4月)
第2章 なぜこれほど精巧に機能するのか――70年の設計原理
2.1 答えはAIの中にあるのではない
2.2 MKUltra――「人間の心の弱点」を体系的に解明した実験
2.3 実験室の知識が「公式の軍事戦略」になった
2.4 SNS時代――偽情報工作が社会全体に広まった
2.5 AI時代――個人を精密に狙う情報戦の完成
第3章 なぜジャーナリストと政治家が最優先ターゲットなのか
3.1 職業的な特性そのものが「狙いやすさ」になる
3.2 判断力を使い果たさせる攻撃
3.3 「情報の門番」から「情報の拡声器」への逆転
第4章 現代の事例を深く読む
4.1 ハンダラ事案――技術的被害より「心理的打撃」が目的
4.2 JAXA侵害疑惑――「わからない」状態を作ること自体が目的
4.3 民主主義国家のジレンマ――米国自身が最先端を作ってきた
4.4 中国系ハッカーの便乗型攻撃――「判断力消耗のピーク」を狙う手口
第5章 「何が本当かわからない」状態を作ることが目的
5.1 ファクトチェックという新たな盲点
第6章 情報戦の設計を知ったあなたが今日からできること
6.1 まず直視すべき逆説――あなたは被害者であり、加害者でもある
6.2 政治家個人として――情報戦の心理的仕掛けを逆用する
6.3 制度として作る――組織・政党・議会レベルの設計
6.4 ジャーナリスト・マスコミへの提言――「門番」を取り戻す
6.5 最後に――正しい知識は武器である
第7章 まとめ ー正しく疑う者が、最後に残る
・参考資料
・用語集
・エグゼクティブサマリー
本稿は、2026年4月に表面化したイランと関係するハッカー集団「ハンダラ」によるイスラエル軍将校の個人情報暴露事件、および日本のJAXA(宇宙航空研究開発機構)への不正アクセス疑惑を入口に、現代のサイバー空間における情報戦の構造を解明するものである。
これらの事件が示す脅威は、システムへの技術的侵害にとどまらない。現代の情報戦が標的にしているのは、人間の判断力そのものである。そしてその設計原理は、冷戦期に米国CIAが実施した心理実験(本稿では「MKUltra」として詳述する。用語集参照)に端を発し、心理作戦の制度化、SNS上の偽情報工作、さらにAIを用いた個人標的型の操作へと、70年をかけて進化してきた。
本稿が最も強調したい逆説がある。情報を正しく判断しようとする行為そのものが、現代の情報戦において攻撃の対象として設計されている。ジャーナリスト・政治家・安全保障関係者——すなわち情報感度が高く、使命感を持って行動する人々が、最も精密に狙われている。本稿はその構造を明らかにし、個人と組織が今日からとれる具体的な対策を提示する。
| 本稿が明らかにする4つの論点 |
| ① 現代の情報戦には70年の設計原理がある 冷戦期にCIAが実施した極秘の心理実験「MKUltra」(1953〜1973年)は、人間の心の三つの根本的な弱点を体系的に解明した。その知識は米軍の心理作戦として公式化され、SNS・AIという技術の進化を経て、今日のサイバー空間における情報戦の設計原理として生き続けている。ハンダラのような集団も、JAXAをめぐる不確実性の拡散も、大規模事件に便乗して拡散する中国系ハッカーの手口(舩山、2026)も、同じ原理の上に動いている。 ② ジャーナリストと政治家が最優先ターゲットである理由 速報を重視する使命感、情報に敏感であるという職業的特性、そして情報を正しく判断しようとする行為そのものが、判断力を消耗させ思考を止めるよう設計された攻撃の入口になる。情報感度が高い人ほど、この罠に精密に狙われる。 ③ 民主主義国家が抱える根本的なジレンマ 独裁国家は情報統制によって外部からの情報戦を遮断できる。しかし民主主義国家は「情報の自由」という根本的な価値ゆえに、自ら防御を弱めざるを得ない。最も洗練された情報戦技術を開発・実装してきたのが、民主主義を掲げる米国自身であるという事実は、この問題の複雑さを象徴している。 ④ 現代の情報戦の目的は「混乱の持続」である かつての宣伝戦は「特定の嘘を信じさせること」を目的とした。現代の情報戦の目的は「何が本当かわからない状態を持続させること」である。判断できない状態に置かれた市民・報道機関・政治家は動けなくなる。機能しない民主主義——それが攻撃の最終目標である。 |
第1章 今、あなたの判断力は攻撃されている(2026年4月)
一つ問いかけから始めよう。
あなたは今日、「確認されていない情報」を何件、何らかの形で転送・言及・反応しただろうか。
できないだろう。数えることすら難しいはずだ。それが問題の核心である。
2026年4月4日、イランと関係するハッカー集団「ハンダラ(Handala)」が、イスラエル国防軍の精鋭情報部隊「第9900部隊」に所属する上級将校50名の個人情報を公開したと主張した(注:イスラエル当局による公式確認は執筆時点で限定的である)。集団はこれを「イスラエルの無敵神話の終わり」と表現した。
世界中のメディアがこのニュースを報じた。多くのジャーナリストは、情報の真偽を確認する前に速報として発信した。その瞬間、彼らは気づかないまま「情報戦の拡声器」として機能していたのである。
同じ時期、日本でも別の不安が静かに広がっていた。2024年から2025年末にかけて報告されたJAXA(宇宙航空研究開発機構)への不正アクセス疑惑である。誰がやったのかも、実際に情報が盗まれたのかも未確定のまま、公式発表は限定的だった。1しかしそれだけで十分だった。「日米の宇宙・防衛技術協力は本当に安全なのか」という疑念の種は、すでに蒔かれていたからである。
これらの事件で最も重要な問いは、「誰がやったのか」でも「何が盗まれたのか」でもない。
「なぜ、これほど少ない材料で、これほど大きな社会的不安が生まれるのか」 ——これである。
なぜ優秀なジャーナリストが真偽未確認のまま報道し、経験豊富な政治家が確かめてもいない情報に反応してしまうのか。これは個々人の油断や能力の問題ではない。70年前から精密に設計された「仕掛け」が、今あなたの情報環境の中で動いているからである。
| この仕掛けの根源を知らずして、対策は存在しない |
| 現代のサイバーセキュリティ対策の多くは、システムの防御に注力している。しかし現代の情報戦が標的にしているのは、システムではなく人間の判断力そのものである。その設計原理を理解しないまま対策を積み上げることは、「窓に鍵をかけながら扉を開け放っている」ことに等しい。 本稿が明らかにするのは、その設計原理の起源、進化の経路、そして今日のあなたの情報環境への実装方法である。 |
1 本事案は執筆時点で攻撃者・被害範囲ともに公式確認がなされていない。本稿での言及は「不確実性の持続それ自体が情報戦的効果を持つ」という論点の例示であり、特定の国家・組織による攻撃を断定するものではない。関連報道として、JAXA公式発表(2025年)および国内主要紙の報道を参照。
第2章 なぜこれほど精巧に機能するのか――70年の設計原理
2.1 答えはAIの中にあるのではない
ハンダラの攻撃やJAXA侵害疑惑がなぜこれほど効果的なのか。最初に思い浮かぶ答えは「AIが発達したから」「SNSで情報が瞬時に広まるから」というものだろう。
しかし、それは半分しか正しくない。技術が進化したのは事実だが、「なぜ人間の心がこのように反応するのか」という設計原理は、70年前にすでに発見されていた。AIとSNSは、その設計原理を社会全体に広めるための増幅装置に過ぎない。
その設計原理の発見の場の名前は「MKUltra(エムケー・ウルトラ)」である。
| 【重要な前提】「設計原理の継承」と「直接の系譜」の違いについて |
| 本章を読む前に、一点を明確にしておく必要がある。 本稿は「ハンダラがMKUltraの後継組織だ」「JAXAを攻撃したのはCIAだ」と主張するものではない。そのような直接の組織的つながりの証拠は存在しない。 本稿が主張するのは、より根本的なことである。 MKUltraが70年前に実験室で発見した「人間の心の弱点」は、人類共通の認知的な特性であり、組織や国家を超えて普遍的に存在する。現代の情報戦はその普遍的な弱点を、より強力な技術で、より効率的に突いている。 歴史を遡る目的は、陰謀論的な因果を描くことではない。「なぜ人間はこのように反応するのか」という根本原理を理解することで、初めて実効性のある対策が可能になるからである。 |
2.2 MKUltra――「人間の心の弱点」を体系的に解明した実験
1953年、米国CIAは極秘プロジェクトを開始した。表向きはソ連・中国の洗脳技術への対抗研究だったが、実態は「人間の現実の見え方を強制的に書き換える方法」を体系的に研究する実験プログラムだった。
2024年末、米国の公文書館が1,200件を超える機密解除文書を公開した。その内容は衝撃的である。LSDなどの薬物を本人に無断で投与すること、催眠・感覚遮断・電気ショック・睡眠剥奪による精神状態の操作。目的はただ一つ、「人間が現実をどう見るかの基盤を書き換えること」だった。
| MKUltraが発見した「人間の心の三つの弱点」 |
| ① 人間は「世界は安全だ」「自分はある程度コントロールできる」という根本的な安心感の上に生きている。この安心感が一度壊れると、その後に入ってくる全ての情報の意味が変わってしまう。 ② 人間の判断力には限りがある。情報量がその限界を超えると、まともな判断ができなくなる。 ③ 「全部が嘘とも言い切れない」状態は、完全な嘘よりもはるかに人の判断を麻痺させる。 この三つの弱点は、人間であれば誰もが持つ普遍的な認知的特性である。MKUltraはそれを実験的に解明しただけであり、同じ原理は国籍・組織・時代を問わず機能する。 今日のハンダラの攻撃にも、JAXA侵害疑惑の報道にも、そのまま設計として組み込まれている。70年の時を超えて、同じ原理が動いているのである。 |
1973年にはほとんどの記録が抹消されたが、1977年に情報公開法(FOIA)の申請によって2万件の文書が発見され、上院の公聴会でその全貌の一部が明らかになった。上院の調査委員会(Church委員会)はこう結論付けた。「アメリカは敵の戦術を採用してはならない」。しかしその後何が起きたかは、この論文が論じる通りである。
2.3 実験室の知識が「公式の軍事戦略」になった
MKUltraで体系化された「人間の心の弱点」に関する知識は、米軍の「心理作戦(PSYOP)」として公式に制度化された。2003年の米軍統合心理作戦教範は、心理作戦を「外国の政府・組織・個人の感情・動機・判断、そして最終的には行動に影響を与えるために、選択された情報を伝える計画的な作戦」と定義している。
2025年12月、米国防長官ピート・ヘグセスは、2010年以来使われてきた穏やかな名称「軍事情報支援作戦(MISO)」を廃止し、「心理作戦(PSYOP)」という呼び名に戻す命令に署名した。穏やかな名前で隠していたものを、今度は堂々と「心理作戦」と呼び直した。この名称変更は、MKUltraとの直接の組織的連続性を意味するものではないが、「人間の判断に働きかける」という原理が現代の安全保障においてもなお中心的な位置を占めていることを、公的に確認するものである。
2.4 SNS時代――偽情報工作が社会全体に広まった
実験室で解明された「人間の心の弱点を突く技術」は、インターネットとSNSの普及によって、社会全体に広めることが可能になった。この段階でMKUltraとの「直接の系譜」を主張できる組織はないが、「同じ心理的原理を、より効率的な技術で実装した」という共通の設計が各国で独立して発展したとみるべきである。
2016年の米国大統領選挙へのロシアの介入はその代表例だが、情報工作を行ってきたのはロシアだけではない。2024年、ロイターは、トランプ第一次政権(2020年)がフィリピンなどアジア諸国で数百の偽SNSアカウントを使い、中国製ワクチンへの不信感を広める秘密キャンペーンを展開していたことを報じた。「民主主義の守護者」を掲げる米国が、実際には他国の情報環境を意図的に操作していたことを示す、公的に確認された事例である。
2.5 AI時代――個人を精密に狙う情報戦の完成
SNS時代の情報操作が「大勢の人への一斉配信」だとすれば、AI時代の情報戦は「個人への精密な狙い撃ち」である。この違いは非常に重要だ。AIが可能にしたのは主に4つのことである。
- 個人の行動データ・感情の状態・思考の弱点をリアルタイムで分析する
- その個人に最も効果的なメッセージとタイミングを自動で最適化する
- フェイク画像・動画・音声・文章を大量に低コストで生成する
- 本物の侵害データとAI製フェイクを混ぜ合わせ、「何が本当かわからない」状態を意図的に作り出す
MKUltraの実験室で発見された「人間の心の三つの弱点」は、今やAIによって一人ひとりのレベルで精密に突かれる時代になった。これが、ハンダラのような集団が少ないコストで大きな社会的効果を生み出せる理由である。
第3章 なぜジャーナリストと政治家が最優先ターゲットなのか
3.1 職業的な特性そのものが「狙いやすさ」になる
情報戦を設計する側にとって、ジャーナリストと政治家は「最も少ない手間で大きな効果を得られる標的」である。その理由は彼らの能力の低さではない。むしろ逆で、高い使命感と責任感にある。
ジャーナリストは速報を大切にする。「重要な情報は早く伝えなければ」という使命感が、確認前でも反応してしまう習慣を生む。政治家は世論の動向に敏感で、「国民が心配していることに応えなければ」という責任がある。どちらも社会的な影響力が大きく、一人を動かせば波及効果が何倍にも広がる。
ハンダラが第9900部隊将校の個人情報を公開した際、世界中のジャーナリストが真偽を確認する前に報道した。気づかないまま、情報戦の最良の拡声器として機能したのである。これは彼らの失敗ではない。そう機能するよう精密に設計された仕掛けが動いた結果である。
3.2 判断力を使い果たさせる攻撃
心理学の研究(Kahneman, 2011「ファスト&スロー」)によれば、人間の判断力や批判的に考える力には限りがある。この力は使えば使うほど疲れていく。
現代の情報戦の最先端は、もはや「偽情報を信じさせること」ではない。「偽情報を見分けようとする判断プロセス自体に負荷をかけて、思考を止めさせる」段階に進化している。
矛盾する情報を大量に流す、真偽不明の情報を出し続ける、本物の侵害とフェイクを意図的に混ぜる――これらはすべて、受け取る側の判断力を意図的に使い果たさせるための設計である。情報感度が高く、大量の情報処理を職業として求められるジャーナリストと政治家は、この攻撃に対して構造的に弱い立場にある。
3.3 「情報の門番」から「情報の拡声器」への逆転
従来、ジャーナリストは「情報の門番」として、誤情報の拡散を防ぐ役割を担ってきた。しかし現代の情報戦において、この役割が逆転する危険がある。
「あなたの組織は侵害されているかもしれない」「あなたが信じている情報は操作されているかもしれない」――この不確実性が一度植え付けられると、その後に入ってくるすべての情報の意味が変わる。ジャーナリストや政治家は「念のために報道・言及する」という判断をしやすくなり、結果として情報戦が意図したメッセージを自ら広めてしまう。
| 「被害者が、気づかないまま加害者になる」という構造 |
| この逆転こそが、現代の情報戦の最も巧妙な設計である。第6章では、この構造を知った上でどう動くかを論じる。 |
第4章 現代の事例を深く読む
4.1 ハンダラ事案――技術的被害より「心理的打撃」が目的
ハンダラはイランの情報・安全保障省(MOIS)の偽装組織と広く分析されており、米国司法省も同組織を「影響力工作・心理的な威嚇キャンペーンのためにMOISが用いる偽装集団」と説明している。
元イスラエル国家サイバー総局副長官ラファエル・フランコはこう評価している。「我々が相手にしているのは深い技術力を持つハッカー集団ではなく、主な目的が心理的な影響を与えることにある集団だ。脅威は技術的な被害だけでは測れず、個々のサイバー事件を継続的な意識戦の道具に変える能力によって測られる。」
| 主な作戦例 | 狙われた心理的効果 |
| 幼稚園20か所以上の緊急警報システムを乗っ取る(2026年1月) | 技術的な難易度は低いが、子どもへの危険という心理的打撃は甚大である。 |
| FBI長官の個人メールを侵害(2026年3月)2 | 米国の最高情報機関トップの個人情報が無防備だという「信頼の神話崩壊」の象徴的効果。 |
| 第9900部隊将校の情報公開(2026年4月) | 将校個人の安全感の破壊 / イスラエル国内での政府への不信感の醸成 / 国際的な安全保障協力への疑念という三層の効果。 |
2 Ben Am, A. & Sheinker, E. (2026年4月1日). 6 Things To Know About Handala. Foundation for Defense of Democracies.; SOCRadar (2026年4月). Dark Web Profile: Handala Hack.
なお、公開された情報の真偽・完全性についてはイスラエル当局による公式確認が限定的であり、ハンダラ側の誇張の可能性も念頭に置く必要がある。
4.2 JAXA侵害疑惑――「わからない」状態を作ること自体が目的
2024年〜2025年末にかけて報告されたJAXAへの不正アクセス疑惑は、真偽・犯人ともに未確定である点において、情報戦の観点から特に注目すべき事案である。1
なぜなら、たとえ実際の侵害が限定的であっても、「侵害されたかもしれない」という不確実性を長期間続けるだけで、日米の宇宙・防衛技術協力への信頼に疑念を植え付けるという情報戦の目的は達成できるからである。「公式発表がない」という状況では、沈黙が最も多くの憶測を生む。
日米同盟の核心は、技術的優位性と情報共有への相互信頼である。その信頼に疑念を植え付けることは、ミサイルや軍艦より低コストで同盟を揺さぶる手段になり得る。誰がやったか確定していない段階での報道は、意図せず情報戦の効果を広げるリスクをはらんでいる。
4.3 民主主義国家のジレンマ――米国自身が最先端を作ってきた
この論文の最も不都合な論点がここにある。現代の情報戦で最も洗練された技術を開発・実装してきたのは、民主主義を掲げる米国自身である。
MKUltraで体系化された「人間の心の弱点」の知識は、心理作戦として制度化され、SNS時代にはインフルエンサー活用・偽アカウント工作として転用された。民間AI企業と国防総省・CIAの連携も加速しており、CIA公式のベンチャーキャピタル「In-Q-Tel」を通じた複数のAIスタートアップへの投資など、安全保障機関と民間AI企業の融合は公的に確認できる形で進んでいる。
独裁国家は強制的な情報統制で外部からの情報戦攻撃を防ぐ。しかし民主主義国家は「情報の自由」という根本的な価値を守るために、自ら防御を弱めざるを得ない。ここに民主主義の根本的なジレンマがある。
4.4 中国系ハッカーの便乗型攻撃――「判断力消耗のピーク」を狙う手口
筆者は前稿(舩山、2026年3月)において、中国政府系ハッカーが用いる特徴的な手口を報告した。大規模な事件や事故が発生した直後、当該事件名を冠したSNS投稿を自動的に大量発信し、速報を求めて反射的にリンクを開いた閲覧者のデバイスにマルウェアを仕込む。そして侵入後はすぐには動かず、時期を見計らって「発火」させるというものである。
この手口は、本稿が論じる設計原理の技術的な実装として正確に位置づけられる。攻撃者は事件を起こすのではなく、既存の事件に便乗する。速報を確認しなければという使命感が最も高まるその瞬間——すなわち判断力が最も消耗しているピーク時——を狙い澄ましてリンクを踏ませる。侵入後に長期間潜伏して「侵害されているかもしれない、されていないかもしれない」という不確実な状態を継続させること自体が、第5章で論じる「混乱の持続」の技術的実装でもある。ジャーナリストや政治家が「重要な速報には即座に反応しなければならない」という職業的習慣を持つ限り、この攻撃の入口は常に開いたままになる。詳細は前稿を参照されたい。
5. 「何が本当かわからない」状態を作ることが目的
現代の情報戦が冷戦期の心理戦と根本的に違う最大の点がここにある。目的が「偽情報を信じさせること」から「何が本当かわからない状態を続けること」へと変わったのである。
かつての宣伝戦は、敵に「A国は悪だ」と信じさせることを目指した。現代の情報戦は「A国は悪かもしれないし、悪くないかもしれない。そもそも何が本当かわからない」という状態を作ることを目指す。この状態では、人は判断を止める。判断を止めた人は動かない。動かない民主主義は、機能しない。これが最終的な狙いである。
AIの普及はこの攻撃を格段に容易にした。本物の侵害データにAI生成のフェイクを混ぜ込むと、受け取る側は何を信じるべきか判断できなくなる。ハンダラはしばしば誇張・古いデータの再利用・部分的なフェイクを組み合わせる。「全部が嘘とも言い切れない」状態を作ることが目的であり、完全な嘘よりもはるかに効果的である。
ジャーナリストにとって、これは職業的な存在意義への攻撃でもある。「事実を確認して伝える」という使命を果たそうとする行為そのものを通じて判断力を使い果たさせ、誤情報の拡散に加担してしまうという逆説――これこそが現代の情報戦の核心的な設計である。
5.1 ファクトチェックという新たな盲点
「何が本当かわからない」状態が広がる中で、ファクトチェック組織への期待が高まるのは自然な流れである。しかしここに、もう一つの盲点がある。
「ファクトチェック済み」というラベルは、今や真実の判定そのものとして機能している。しかしファクトチェック機関も、資金提供者・運営母体・政治的文脈によるバイアスから自由ではない。何をチェック対象に選ぶか、どの基準で判定するかは、必然的にその影響を受ける。
より深刻なのは、「ファクトチェック済み」というラベルが受け手の批判的思考を停止させる点である。判断を権威に委ねるとき、人は操作に対してより脆弱になる。そしてファクトチェック機関自体が情報戦の操作対象になれば、その先に流れるものはすべて操作済みになる。
ファクトチェックは批判的思考の代替ではなく補助である。「チェック済み」という権威に思考を止められていないか――この問いを手放してはならない。
6. 情報戦の設計を知ったあなたが今日からできること
情報戦の設計原理を正しく知ることは、防御のためだけではない。設計を正確に理解した人間は、同じ構造を見抜き、名指しし、無効化することができる。これは受け身の知識ではなく、能動的な武器である。
この章では「標的」と「拡声器」という二つの役割を同時に担わされている政治家・ジャーナリスト・マスコミ関係者が、その仕掛けを知った上で動くための具体的な行動と制度設計を提案する。
6.1 まず直視すべき逆説――あなたは被害者であり、加害者でもある
情報戦の最も巧妙な点は、被害者を気づかないまま加害者に変えることである。以下は、政治家とジャーナリストの間で起きている「相互増幅のループ」である。
| 政治家の動き | ジャーナリスト・マスコミの動き |
| ① 未確認情報に接触 | ① 速報性を優先して報道 |
| ② 国会・委員会で言及 | ② 政治家がその報道を見て反応 |
| ③「政治家が問題視」として報道価値が生まれる | ③ さらに報道が拡大する |
このループはハンダラのイスラエル将校情報暴露事件で世界規模で実際に起きた。ハンダラが情報を公開した数時間以内に、世界中のメディアが真偽確認なしに報道し、各国の政治家がその報道に反応してコメントを出した。ハンダラは追加の攻撃を何もしなくても、意図した情報戦の効果を手に入れたのである。
| 情報戦が最も恐れる問い |
| 「この情報を今報道・言及することで、誰が最も得をするか」 この一問を習慣にするだけで、相互増幅ループへの参加を意識的に止めることができる。 情報戦の設計者は、この問いを持たれることを最も嫌う。なぜなら、この問いは判断力を消耗させずに判断の質を上げる、最も効果的な方法だからである。 |
6.2 政治家個人として――情報戦の心理的仕掛けを逆用する
【速報への反応を逆用する:48時間原則】
情報戦は「重要情報には今すぐ反応しなければ」という使命感を悪用する。これを逆用する最もシンプルな対策は「意図的な遅延」である。
- サイバー侵害・情報暴露・機密漏洩に関する未確認情報には、48時間以内にコメント・質問・言及をしない
- 「沈黙は無関心ではなく、情報戦への不参加宣言である」という認識を持つ
- 実際に48時間後に再確認すると、情報の文脈や真偽が大幅に変わっていることが多い
海外事例:2024年の欧州議会選挙期間中、複数の議員がこの原則を採用し、偽情報の拡散を防いだことが報告されている。
【判断力の消耗を逆用する:時間帯ルール】
情報戦は情報過多によって判断力を使い果たさせることを狙う。これを逆用するには「判断する時間帯」を決めることである。
- 安全保障・情報関連の重要な判断は午前中(判断力が十分な時間帯)に集中させる
- 夕方以降に飛び込んでくる「緊急情報」への反応は翌朝まで保留する仕組みを、秘書・スタッフと共有する
- 情報量を減らすのではなく「判断の時間帯を選ぶ」という発想の転換が大切である
根拠:判断疲弊(Decision Fatigue)は午後に顕著になることが研究で示されている(Kahneman, 2011)。
【安心感を壊す攻撃を逆用する:侵害前提の思考法】
「あなたの組織は侵害されているかもしれない」という不確実性が一度植え付けられると、その後の全情報の解釈が歪む。これを逆用するには「侵害されている前提」を先取りすることである。
- 「安全かもしれない」ではなく「侵害されているかもしれない」を平時の前提として業務を設計する
- そうすることで「侵害されたかもしれない」という情報が飛び込んでも、心理的な動揺が最小化される
- 「安心感を壊す」攻撃は、安心感をそもそも前提にしていない相手には、効果が大幅に下がる
6.3 制度として作る――組織・政党・議会レベルの設計
議会・委員会レベル
- サイバー・情報戦インシデントに関する質問・言及の前に「誰がやったかの確認」を義務化する内規を作る
- 情報委員会(または安全保障委員会)に「情報戦インシデント評価」の機能を持たせ、報道前に客観的な評価を提供できる体制を整える
- 情報戦への理解を深める研修を、議員・秘書・委員会スタッフの必須研修として制度化する
政党・政策立案レベル
- 政党の広報・SNS運用ガイドラインに「情報戦の拡声器になるリスク評価」の項目を追加する
- 同盟国間(特に日米)での情報戦インシデントの情報共有の外交的な枠組みを推進する
- JAXA事案のような「誰がやったか不明なインシデント」は、迅速な日米間協議が情報戦の効果を最も効率的に抑える
6.4 ジャーナリスト・マスコミへの提言――「門番」を取り戻す
ジャーナリストは本来、誤情報の「門番」である。しかし現代の情報戦はこの門番機能を逆手にとって、ジャーナリストを最良の「拡声器」に変える。門番機能を取り戻すための具体的な提言を以下に示す。
| 報道前の必須確認事項――情報戦フィルター |
| 【誰がやったかの確認】 攻撃者が誰かは確定しているか。「○○と主張している」と「○○がやった」は別物として扱う 【得をするのは誰かの確認】 この情報を今報道することで、誰が最も利益を得るか。意図せず設計通りに動いていないか 【タイミングの確認】 なぜ今この情報が出てきたのか。選挙・外交交渉・同盟協議との時間的な重なりを確認する 【本物とフェイクの混合確認】 本物のデータとAI製フェイクが混在していないか。「全部が嘘とも言い切れない」状態は情報戦の典型的なパターンである 【増幅ループの確認】 この報道が政治家の反応を引き出し、さらに報道が拡大するループに入っていないか |
- ハッカー集団・国家系グループの自称・声明を報道する際の表記基準を明文化する。「ハンダラはイスラエル軍将校の情報を暴露した」ではなく「ハンダラは暴露したと主張している」という表記を標準化する
- 「速報」と「解説報道」を意識的に分け、解説報道では情報戦の文脈を必ず付け加える
6.5 最後に――正しい知識は武器である
情報戦の設計原理を正しく知ることは、防御のためだけではない。設計を正確に理解した人間は、同じ構造を見抜き、名指しし、無効化することができる。これは受け身の知識ではなく、能動的な武器である。
| 正しい知識を武器として使うための問い |
| 「この情報は今なぜ出てきたのか」――タイミングを疑う 「誰がこれを信じさせたいのか」――利益の流れを追う 「誰がやったかは確定しているか」――帰属をきちんと区別する 「速報への反応を一度止められるか」――設計に乗らない選択をする 「わからない状態は、判断を保留する正当な理由だ」――不確実性を武器にされない |
情報戦の設計者が最も恐れるのは、パニックでも無関心でもない。設計を知った上で、静かに、組織的に、時間をかけて検証する人間である。
7. まとめ –正しく疑う者が、最後に残る
この論文が示した情報戦の歴史は、不快な真実を含んでいる。それは「敵だけが情報戦を行っている」という思い込みが間違いだという事実である。
ハンダラによるイスラエル将校の情報暴露、JAXAへの侵害疑惑――これらの事件の背後には、MKUltraで実験室に閉じていた「人間の心の弱点」という普遍的な設計原理が、心理作戦・SNS偽情報工作・AIによる個人標的型の操作という70年の進化を経て、今あなたの情報環境に広まった姿がある。その設計者は一つの「悪者」ではなく、民主主義国家を含む複数の国家である。そして繰り返すが、ハンダラやJAXAを攻撃した者とMKUltraの間に、直接の組織的系譜があるというわけではない。問題はより普遍的である。“人間の認知的弱点を突く”という設計原理が、時代と技術を超えて繰り返し「再発明」されてきたという事実そのものが、私たちに重大な教訓を与えている。
最も重要な結論はこれである。“現代の情報戦において、情報を正しく判断しようとする行為そのものが攻撃の対象として設計されている。”事実確認、批判的に考えること、速報性の追求――これらは民主主義社会の根本的な価値だが、同時に情報戦の侵入経路として精密に利用されている。
この逆説への答えは、批判的に考えることを止めることではない。情報戦の設計を正しく知った上で、より少ない情報をより深く、より時間をかけて、より組織的に検証する力を、個人と組織の両方で意識的に育てることである。
「闇と秘密の時代は終わった」――ハンダラはそう声明に書いた。
透明性の時代とは、同時に、透明性を装った操作の時代でもあるのである。
参考資料
一次資料(公的文書・機密解除文書)
- U.S. Senate Select Committee on Intelligence (1977). Project MKULTRA, The CIA’s Program of Research in Behavioral Modification.
- CIA Inspector General Report on MKULTRA (1963). Declassified. National Security Archive, George Washington University.
- National Security Archive & ProQuest (2024年12月). MKUltra Declassified Document Collection (1,200+ documents). nsarchive.gwu.edu
- CIA Electronic Reading Room (2025). Project Artichoke: Special Research Report. foia.cia.gov
- Hegseth, P. (2025年12月2日). Memorandum: Changing the Term Military Information Support Operations Back to Psychological Operations. U.S. Department of Defense.
- Joint Chiefs of Staff (2003). Doctrine for Joint Psychological Operations (JP 3-53). Washington, DC: DoD.
- Church Committee Report (1975). Final Report of the Select Committee to Study Governmental Operations with Respect to Intelligence Activities. U.S. Senate.
学術文献
- Deppe, C. & Schaal, G.S. (2024). Cognitive warfare: a conceptual analysis of the NATO ACT cognitive warfare exploratory concept. Frontiers in Big Data, 7, 1452129.
- Janoff-Bulman, R. (1992). Shattered Assumptions: Towards a New Psychology of Trauma. New York: Free Press.
- Kahneman, D. (2011). Thinking, Fast and Slow. New York: Farrar, Straus and Giroux.
- Marsili, M. (2025). Cognitive Warfare in Historical Perspective: From Cold War Psychological Operations to AI-Driven Information Campaigns. Preprints.org, 202512.1596.
- Hoffman, F.G. (2025). Assessing Cognitive Warfare. Small Wars Journal, November 2025.
- Danyk, Y. & Briggs, C.M. (2023). Modern Cognitive Operations and Hybrid Warfare. Journal of Strategic Security, 16(1), 35-50.
- NATO Allied Command Transformation (2023). Cognitive Warfare Exploratory Concept.
報道・調査報告
- WANA News (2026年4月4日). Handala Claims Exposure of 50 Senior Officers in Israeli Unit 9900.
- Ben Am, A. & Sheinker, E. (2026年4月1日). 6 Things To Know About Handala. Foundation for Defense of Democracies.
- SOCRadar (2026年4月). Dark Web Profile: Handala Hack.
- Reuters (2024). Trump administration ran covert anti-China vaccine disinformation campaign in Asia.
- Meta Transparency Report (2024). Coordinated Inauthentic Behavior: STOIC operation.
- Polytechnique Insights (2026年1月). Cognitive warfare: what seven years of military-civilian research reveals.
筆者前稿
- 舩山 美保(2026年3月15日). 「ペルシャ湾岸攻撃が示す中国系ハッカーの脅威 ―日本が今すぐ備えるべきサイバー安全保障」. 一般財団法人 日本危機管理研究所, No.007. 一次情報出典:Zscaler ThreatLabz(2026年3月12日). https://inst-ds.org/news/606/
著者プロフィール
舩山 美保|理事・主任研究員
上智大学外国語学部国際政治学専攻卒業、青山学院大学大学院国際政治経済学研究科修了。ISO/IEC JTC1 SC28副国際幹事を歴任し、国際標準化推進への寄与として表彰を受ける。PSYOP(心理作戦)・情報戦・AIリスクを専門とし、国際政治経済と心理学を基盤に中東情勢の分析・考察を行う。
用語集
| 用語(英語) | 解説 |
| 認知戦 Cognitive Warfare | 人間の認知(考え方・判断・信念)そのものを攻撃対象にした戦争の形態である。銃や爆弾ではなく、情報・感情・心理を通じて相手の行動を変えようとする。NATOが2023年に正式な脅威概念として認定した。 |
| 心理作戦(PSYOP) Psychological Operations | 選択された情報を使って、対象者の感情・動機・判断・行動に影響を与える計画的な軍事作戦である。米軍の正式な戦略カテゴリーであり、2025年12月に「軍事情報支援作戦(MISO)」から名称が元に戻された。 |
| MKUltra Project MKUltra | 1953〜1973年に米国CIAが極秘で実施した心理・行動制御の研究プログラムである。表向きはソ連・中国の洗脳技術への対抗研究とされたが、実態は「人間の現実の見え方を強制的に書き換える方法」の体系的な研究だった。LSDなどの薬物投与・催眠・電気ショック・感覚遮断などの手法が用いられ、1977年に情報公開法(FOIA)の申請で2万件の文書が発見・部分解除され、上院公聴会でその全貌の一部が明らかになった。本稿が論じるのはMKUltra自体の是非ではなく、このプログラムが体系的に解明した「人間の心の弱点」という設計原理が、時代と技術を超えて現代の情報戦に継承されているという事実である。 |
| 偽情報工作 Disinformation Operation | 意図的に誤った情報を広める組織的な活動である。単純な「嘘をつく」こととは異なり、本物の情報に偽情報を混ぜたり、タイミングを計算して流したりする複雑な設計が特徴である。 |
| 帰属(アトリビューション)Attribution | サイバー攻撃や情報工作が「誰によるものか」を特定することである。現代の情報戦では、攻撃者が意図的に痕跡を隠したり別の国のふりをしたりするため、帰属の確定は非常に難しい。「帰属不明」の状態自体が情報戦に利用される。 |
| 判断疲弊 Decision Fatigue | 人間の判断力(意思決定能力)は有限であり、使い続けると質が低下する現象である。心理学者カーネマン(Kahneman, 2011)らの研究で実証されている。情報戦は、判断疲弊を意図的に引き起こすことで、相手の批判的思考力を奪う。 |
| フレーミング効果 Framing Effect | 同じ事実でも、どのように「枠組み」して提示するかによって、人の判断が全く異なる方向に変わる効果である。情報戦はこの効果を意図的に使い、事実は変えずに「見え方」だけを操作する。 |
| ディープフェイク Deepfake | AIを使って、実在する人物の顔・声・動作を精巧に合成した偽の映像・音声・画像のことである。本物の映像・文書に混ぜることで「何が本当かわからない」状態を作るために使われる。 |
| 影響力工作 Influence Operation | ソーシャルメディアや偽アカウント、インフルエンサー等を使って、特定の国・集団の世論・政治判断を意図的に動かそうとする組織的な活動である。 |
| ナラティブ(物語)戦争 Narrative Warfare | 単なる「嘘の拡散」ではなく、社会全体が共有する「物語」や「常識」の枠組みそのものを変えようとする情報戦の高度な形態である。「どちらが正しいか」ではなく「何が現実なのかの基準」を書き換えることを目的とする。 |
