欧州における中国の情報活動

 ―チェコのスパイ事件が示す人的情報収集と影響工作の構造―

Issue No. 004

2026年3月13日

発行元:一般財団法人 日本危機管理研究所

執筆:舩山 美保

エグゼクティブサマリー

   •   2026年3月12日、Respekt (チェコの週刊政治経済誌)は、プラハで中国の情報機関と関係を持つとみられる人物による情報収集活動について報じた。

   •   報道によれば、この人物は研究者やジャーナリストの立場を装い、政治関係者や専門家に接触していたとされる。

   •   収集の対象には、チェコの外交政策、中欧地域の政治動向、台湾問題など中国の国益に関わる政策情報が含まれていた可能性が指摘されている。

   •   本件は、通常の国際交流と区別がつきにくい形で行われる**人的情報収集(HUMINT)**の典型的事例とみられる。

   •   近年の中国の対外情報活動は、人的情報収集に加え、政治的影響工作(Influence Operation)やサイバー情報収集と組み合わされる傾向が強まっている。

   •   欧州では、中国の政治的影響活動に対する警戒が高まっており、チェコの事例はその具体的、象徴的な事例の一つと位置付けられる。

   •   本レポートは、チェコの事例を手掛かりとして、中国の対外情報活動の構造と現代の「平時の情報戦」の特徴を整理する。

   •   また、民主主義国家における制度的課題を検討し、日本にとっての政策的示唆を提示する。

キーワード:

中国情報活動

国家安全部(MSS)

影響工作

HUMINT

統一戦線工作部

情報戦

欧州安全保障

本文(チェコ事件分析)

2026年3月12日、チェコの報道機関 Respekt は、プラハにおいて中国の情報機関と関係を持つとみられる人物が情報収集活動を行っていた疑いについて報じた。本件は、欧州における中国の情報活動の実態を示す事例として、安全保障研究者の注目を集めている。

報道によれば、この人物は研究者あるいはジャーナリストに近い立場を装い、チェコの政治家、政策関係者、研究者などと接触していたとされる。接触の目的は、チェコの外交政策や中欧地域の政治動向、さらに台湾問題など中国の国益に関わる政策情報の収集であったとみられている。

本件の特徴は、情報収集の方法が通常の国際交流と区別がつきにくい点にある。インタビュー、政策対話、研究会、学術交流、非公式の会食などを通じて接触が行われていたとされる。このような活動は情報機関の用語では「HUMINT(Human Intelligence)」と呼ばれる人的情報収集であり、政策判断や意思決定の背景を把握するための基本的な諜報手法である。

しかし近年の中国の対外活動では、情報収集と同時に政治的影響工作が行われる点が特徴とされる。影響工作とは、政治家、研究者、シンクタンク、メディア関係者など政策形成や世論形成に関与する人物との関係を構築し、長期的に政策環境や世論の方向性を変化させることを目的とする活動である。

欧州では近年、中国の政治的影響活動への警戒が強まっている。チェコ、バルト三国、北欧諸国などでは、中国の政治的影響力拡大が安全保障問題として認識される傾向が強い。チェコの情報機関も、中国の国家安全部(MSS)や統一戦線工作部による政治・学術分野への影響活動について警告を発してきた。

一方で、この事件は民主主義国家が直面する制度的課題も示している。チェコでは外国勢力のための活動を処罰する法律の定義が曖昧であるとの議論があり、合法的な国際交流と外国勢力による影響工作の境界が問題となっている。

この問題は欧州だけでなく日本にも関係する。

日本では外国エージェント登録制度や包括的なスパイ防止法が存在せず、外国政府による影響活動への制度的対応は限定的である。

さらに現代の情報活動は人的情報収集だけではなく、サイバー侵入、データ収集、AIによる分析などと組み合わされている。人的ネットワークから得られた情報とデジタルデータを統合することで、国家はより高度な情報優位を獲得しようとしている。

欧州を経由した技術取得構造(補足分析)

中国の技術取得は、対象国を直接狙うだけでなく、**第三国の研究機関・企業・サイバーインフラを経由する「迂回型情報取得」**の形をとる場合がある。

日本企業や大学が参加する欧州の研究ネットワークが侵害された場合、欧州を経由して日本の技術情報が取得される可能性も否定できない。

特に欧州は

国際共同研究

多国籍企業の研究拠点

EU研究プログラム

などを通じて世界の研究ネットワークのハブとなっており、欧州の情報セキュリティ侵害は第三国の技術流出にも波及する構造を持つ

このように、プラハで報じられた事件は、現代の国家間競争における「平時の情報戦」の一側面を示すものといえる。

結論

チェコで報じられた中国スパイ事件は、現代の情報戦が人的情報収集、政治的影響工作、サイバー情報活動を組み合わせた複合的な形で展開されていることを示す事例である。国家間競争は軍事衝突だけでなく、情報、影響力、データをめぐる静かな競争として進行している。民主主義国家にとって重要なのは、開放的な社会制度を維持しつつ、このような情報活動に対する制度的対応をどのように整備するかという点である。

政策提言

第一に、外国勢力による影響活動の透明性確保である。

欧米諸国では外国エージェント登録制度などを通じて外国政府の政治的影響活動を透明化する制度が存在する。日本でも同様の制度的議論を進める必要がある。

第二に、学術・研究分野における安全保障意識の向上である。

大学や研究機関は情報収集活動の接触点となりやすい。研究交流の開放性を維持しながら、情報安全保障に関する制度と意識を強化する必要がある。(補足B参照)

第三に、サイバーと情報戦への包括的対応である。

人的情報、サイバー情報、世論操作は相互に連動している。政府機関だけでなく、研究機関、企業、メディアを含めた包括的な情報安全保障体制の構築が求められる。

第四に、海外における日本人研究者・企業人への情報安全保障対策の強化である。

日本企業の欧州拠点や大学・研究機関には多くの日本人研究者や技術者が所属しており、国際共同研究や政策交流の重要な拠点となっている。一方で、こうした環境は外国情報機関による接触や情報収集活動の対象となる可能性が高まっている。

そのため、日本政府は在外公館を通じた情報提供や注意喚起を強化するとともに、日本企業や研究者が海外で情報収集活動の対象となる場合を含め、情報保全制度やスパイ行為への法的対応の在り方についても検討を進める必要がある。

補論A  中国情報機関の構造(Ministry of State Security: MSS)

中国の対外情報活動の中心的機関は国家安全部(Ministry of State Security: MSS)である。国家安全部は1983年に設立され、中国の対外情報収集、対諜報活動、政治安全維持などを担当する主要な情報機関である。

MSSは米国のCIAと比較されることが多いが、国内治安維持機能も担う点で旧ソ連のKGBに近い性格を持つと指摘されている。

中国の情報活動はMSSだけでなく複数の組織が関与する。統一戦線工作部は海外の政治家、研究者、華僑社会などとの関係構築を通じて政治的影響力を拡大する役割を担う。また、中国人民解放軍の戦略支援部隊はサイバー戦、電子戦、宇宙情報活動を担当している。

このように中国の情報活動は、人的情報収集、政治影響工作、サイバー情報活動を統合した複合的なシステムとして展開されている。

補論B 欧州における日本企業・研究ネットワークへの波及リスク事例

2023年(オランダ)

半導体装置メーカー ASML で、中国出身の元従業員による技術流出事件が発覚。先端半導体装置関連の技術データが中国側に持ち出されたと報じられた。同社は日本の半導体装置企業や材料メーカーと密接なサプライチェーン関係を持っており、欧州企業を経由した技術流出が日本企業の技術ネットワークにも影響し得る構造が指摘された。

2021年(ドイツ)

ドイツ連邦憲法擁護庁(BfV)は、中国の情報機関が欧州企業・研究機関・技術展示会などを通じて技術取得活動を行っていると報告した。ドイツには多数の日本企業の研究拠点や欧州本社が存在しており、欧州拠点の日本企業が情報収集の対象となる可能性が指摘されている。

2018〜2020年(EU研究ネットワーク)

欧州委員会および安全保障機関は、中国が欧州大学や研究プロジェクトを通じて先端技術取得を試みていると警告した。EUの研究プログラムには日本企業や日本の研究者も参加するケースが多く、国際共同研究ネットワークを経由した技術情報取得のリスクが議論されている。

2024年(欧州議会関連事件)

欧州では、中国情報機関と関係を持つとされる人物が欧州議会関係者と接触し、政策情報の収集や影響工作を行っていた疑いが報じられた。欧州議会やNATO周辺は外交・安全保障情報が集中する環境であり、欧州が国際的な情報収集活動の拠点となり得る構造を示す事例とされている。

補論B分析

欧州は多国籍企業の研究拠点や国際共同研究の中心地であり、日本企業や研究機関も多数の拠点を置いている。このため、欧州の企業や研究機関が外国情報機関による情報収集活動の対象となった場合、欧州を経由して日本企業や日本人研究者の技術情報が取得される可能性も否定できない。

補論C 日本の大学・研究機関をめぐるサイバー攻撃・技術流出事例

2026年3月10日

東京大学は、研究室サーバーに対する不正アクセスを公表。共同研究者が利用していた学外サーバーが先に侵害され、そのアカウントを経由して東大研究室のサーバーに侵入され、学内外のサーバーへの不正アクセスの踏み台として利用された可能性が確認された。警察および関係機関と連携して調査が進められている。

2023年10月24日

東京大学は、教員のPCがサイバー攻撃を受け、学生や卒業生など約4300件の個人情報が流出した可能性があると発表。標的型メールなどを通じたマルウェア感染が原因とみられている。

2023年6月15日(逮捕)

産業技術総合研究所(AIST)の研究者が、フッ素化合物関連の研究データを中国企業に提供した疑いで警視庁に逮捕。不正競争防止法違反の疑いで捜査され、日本の先端技術が海外企業に流出した可能性が指摘された。

2025年頃まで継続的に指摘

日本の大学・研究機関では、中国政府の研究者勧誘プログラムや共同研究を通じて、先端技術が海外に移転するリスクが安全保障上の課題として議論されている。半導体、AI、量子技術など軍事転用可能な分野が特に懸念されている。

参考文献

Ondřej Kundra, František Trojan, “Čínský špion v Praze: na koho sbíral informace a proč se možná dostane na svobodu,” Respekt, 12 March 2026.

Czech Security Information Service (BIS), Annual Report.

Mattis, Peter & Brazil, Matthew. Chinese Communist Espionage: An Intelligence Primer. Naval Institute Press.

Brady, Anne-Marie. “Magic Weapons: China’s Political Influence Activities under Xi Jinping.”

Kania, Elsa B., Costello, John. “The Strategic Support Force and the PLA’s Information Warfare.”

U.S.-China Economic and Security Review Commission, Annual Report to Congress.

https://www.respekt.cz/cesko/cinsky-spion-v-praze-na-koho-sbiral-informace-a-proc-se-mozna-dostane-na-svobodu